古典物理学の悪魔

すべてを見通す存在
悪魔は宗教や神話の中だけにいるわけではない。
物理学の中にも「悪魔」と呼ばれる存在が登場する。
それが「ラプラスの悪魔」だ。
18世紀の数学者ピエール=シモン・ラプラスは、もし宇宙の中のすべての原子の位置と動きを正確に知っている存在がいたとしたら、過去も未来も完全に計算できるのではないか、と考えた。
この仮想の存在が「ラプラスの悪魔」である。
すべての出来事は因果関係でつながり、偶然は存在しない。
未来はすでに決まっており、それを知る知性があれば、世界は完全に予測できる。
決定論の象徴
ラプラスの悪魔は、神のように奇跡を起こす存在ではない。
自然法則を使って、すべてを理性で計算できる存在だ。
それは18世紀の科学精神――「世界は理解できる」という人間の自信――を象徴していた。
宇宙は神秘ではなく、数式と情報の積み重ねで説明できる。
そう信じた時代の象徴が、ラプラスの悪魔だった。
揺らいだ「全知」
しかし20世紀に入り、量子力学が登場すると、その理想は崩れた。
粒子の位置と運動量は同時に正確にはわからない。
観測することで結果が変わる。
つまり、自然は確率的にしか扱えない。
この不確定性の登場で、ラプラスの悪魔は「全てを知る存在」ではいられなくなった。
物理学の世界は、完全な決定論から「揺らぎを持つ現実」へと変わった。
ラプラスの悪魔は、理性の象徴から「人間の限界を映す鏡」になっていった。
再び悪魔を呼び戻す
ところが21世紀の今、AIの発達によって再びこの悪魔が話題になっている。
ディープラーニングの精度が上がり、膨大なデータを解析できるようになった。
もし初期宇宙――ビッグバン直後の単純な状態――にあった原子の位置や動きを正確に再現できるなら、AIはその後の変化をシミュレーションし、今の宇宙に至る過程を「再現」できるかもしれない。
それは、まさにラプラスの悪魔が夢見た世界だ。
総当たり的な計算によって、この宇宙を再構築する。
偶然と思っていた出来事さえ、すべて計算の結果になる。
理解よりも先に進む知性
実際、現代のAIや量子計算の研究では、初期条件から宇宙の大規模構造を導く試みが進んでいる。
AIはすでに、複雑な非線形の世界を近似的に再現する力を持っている。
もしその精度が極限まで高まれば、ラプラスの悪魔は再び現れるかもしれない。
ただし、そこにいるのはもはや人間の理性を超えた「ブラックボックスの悪魔」だ。
AIは結果を出しても、その理由を説明できない。
私たちは「なぜそうなるのか」を理解できないまま、答えだけを受け取ることになる。
それは、かつて理性の象徴だったラプラスの悪魔とはまったく違う姿だ。
悪魔は私たちの中にいる
ラプラスの悪魔は、結局「世界を完全に知りたい」という人間の願いの象徴なのだと思う。
宗教が神に全知を求めたように、科学は計算による全知を求めてきた。
そしてその果てに、また「悪魔」の姿を見る。
AIが宇宙を再現し、人間をも再構成するような時代になっても、悪魔は外にいるのではなく、私たちの知的欲望の中に生きている。
それこそが、科学という営みの光と影なのかもしれない。