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誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ

誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ

その人はどんな方なの、などと私にお尋ねにならないでください。
   九月の冷たい露に濡れながら、
     こうしてあの人をお待ちしている私ですのに…

柿本人麻呂 万葉集より

アナログな感性

「黄昏時」とは、日が沈んでまもなくの薄暗い時間帯を指す。
昼と夜のあいだ、光が完全に消える前のわずかな瞬間。
世界が静かに姿を変えていく、その境界の時間だ。

実は「黄昏(たそがれ)」という言葉は、古語の「誰そ彼(たそかれ)」――“あれは誰だろう?”――から生まれた。
夕暮れの薄明かりの中で、人の顔がぼんやりとしか見えず、思わず「誰そ彼」と呼びかける。
そこには、他者と自分の境界が曖昧になるような、不思議な距離感がある。
昼と夜、人と影、現実と幻想が溶け合い、世界の輪郭が一度ほどける。
そのあやふやな感覚こそが「黄昏」という言葉に宿っている。

「誰そ彼」とは、ただの問いではない。
目の前にいる“誰か”を確かめながら、同時に“自分は誰か”を問い返すような言葉だ。
視界が揺らぐその時間、人は自分と世界のつながりをもう一度感じ直す。
それは、デジタルでは表現できない“0と1のあいだ”にある、人間的でアナログな揺らぎの時間なのだ。

デジタル化が進むほど失われる「あいだ」の感覚

現代社会は、あらゆるものを数値化しようとしている。
感情も行動も、データとして整理され、分析される。
世界は便利になったが、同時に「曖昧さ」が失われつつある。
0か1か、白か黒か。
そのどちらかに分類されないものは、しばしば無視されてしまう。

けれども人間の心は、そんな単純な仕組みでは動かない。
好きと嫌いのあいだに、ためらいがあり、
正しいと間違っているのあいだに、迷いがある。
黄昏時のように、どちらにも決めきれない曖昧さの中で、
私たちは揺れながら考え、感じ、選んでいる。

言葉がつなぐ、人間の柔らかさ

デジタル化が進む今こそ、私たちはもう一度、人間を自然言語的にとらえ直す必要がある。
感情や情景を、数値ではなく言葉で描くこと。
比喩やゆらぎを許すこと。
それが、人間らしい感性を守るための行為なのだと思う。

0と1のあいだには、数えきれない色と感情がある。
悲しみ、恋しさ、ため息、希望――どれもデータでは表せない。
だからこそ人は、それに名前を付け、言葉にしようとしてきた。
「黄昏」もそのひとつだ。
見えにくい他者に「誰そ」と呼びかけたように、
人は言葉によって、見えない世界を確かめてきた。

0と1の外にある、人間の世界

デジタルは明確さを与える。
だが、人間はその明確さの外側に生きている。
黄昏時は、白と黒のあいだに広がる無限のグラデーションを見せてくれる時間だ。
その曖昧さの中にこそ、美しさと真実が宿る。

科学どれほど発達しても、黄昏の情景や心の揺らぎはきっと数値では表せない。
なぜならそれは、人間が「感じ」「名づけ」「語る」ことでしか存在できないものだからだ。

そして今日も、日が沈み、空が灰色に染まるその時――
私たちは無意識のうちに、黄昏の空を見上げている。
そこに、自分の中の曖昧さを確かめるように。

ベイトくん

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