渋谷ハロウィンは現代の仮面舞踏会

キャラクター再現行為としての「コスプレ」
コスプレは単なる仮装を超えた文化的行為である。そこには三つの系譜が交差している。
一つは、身元を隠す目的を持つ「変装(disguise)」、例えば仮面舞踏会やハロウィン。
もう一つは、舞台や映画に見られる「演劇的仮装(theatrical costume)」、役者が役を演じるための衣装。
そして三つ目が、アニメやゲームなど特定のキャラクターに愛着を抱き、参加型文化として楽しむ「ファン的仮装(fandom costuming)」である。
コスプレは、この三者の交差点に位置するが、決定的に違うのは「個人の主体的表現」と「共同体的参加」が同時に実現する点である。コスプレイヤーは衣装を通じて自己を変容させると同時に、同じ趣味を持つ人々との連帯を強めている。
ヨーロッパ的系譜:仮面舞踏会と解放
16世紀ルネサンス期イタリアの仮面舞踏会では、仮面をつけることで貴族も市民も身分を隠し、階層秩序を一時的に超越した。仮面は単なる覆面ではなく、社会的立場を外す「解放装置」として働いたのである。
人類学者ヴィクター・ターナーが唱えた「リミナリティ(liminality=境界性)」の概念を借りれば、仮面舞踏会は日常と非日常の境界に人々を誘う儀礼であったといえる。普段は交わらない人々が仮面の下で自由に交流できるのは、社会的属性が一時的に無効化されるからだ。
日本的系譜:咸宜園の「三奪」
日本にも、身分や肩書きを意識的に隠す文化実践があった。江戸後期、大分の儒学者・廣瀬淡窓が開いた私塾「咸宜園」では、入門条件として「三奪」が掲げられた。すなわち、年齢・地位・職業を人に言わないこと。
武士であれ町人であれ、塾に入れば肩書きは意味を持たない。塾生同士は人間そのものとして対等に学び合うことを求められた。ここでも、ラベルを隠すことが純粋な学びと交流の空間を生んだ。
ヨーロッパの仮面舞踏会が祝祭的な解放をもたらしたのに対し、咸宜園の三奪は教育的・倫理的な平等を実現した。どちらも「隠すこと」が目的ではなく、「本質を引き出すための仕掛け」だった点に共通性がある。
渋谷のハロウィンに見る若年層の本質志向
近年、渋谷の街を埋め尽くすハロウィンの光景は社会現象となっている。単なる仮装パーティーや騒乱として片付けられることも多いが、文化的に読み解けば、そこには若年層の深い欲求が表れているのではないだろうか。
若者たちはキャラクターや奇抜な衣装を身にまとうことで、普段まとわりつく「学生」「会社員」「新社会人」といった属性を脱ぎ捨てている。日常の役割から解放され、ただ「楽しみたい」「仲間と一体感を得たい」というシンプルな動機だけで街に集まる。その姿は、咸宜園の「三奪」が示したように、年齢や職業を隠すことで生まれる平等な関係に近い。
つまり渋谷のハロウィンは、若者たちが一時的にラベルを外し、肩書きや地位を超えて「素の自分」で他者とつながろうとする実践なのかもしれない。騒々しい混沌の中に、現代的な「本質を求める動き」が芽生えていると見ることができる。
マーケティングへの示唆
この「身分や属性を隠すことが本質を照らす」という知恵は、現代マーケティングにも応用できる。従来の広告は「どのブランドが発信しているか」に強く依存してきた。しかし消費者が求めるのは、その背後にある商品やサービスの純粋な価値である。
もし社会が「三奪」的な方向に進み、肩書きやブランド権威が相対化されるのだとすれば、売れるかどうかはより直接的に「中身」にかかってくるだろう。
本当にいいものが売れる時代へ
ヨーロッパの仮面舞踏会も、日本の咸宜園も、そして現代の渋谷のハロウィンも、共通して「隠すことによって本質をあらわす」という逆説を抱えている。今の時代は、数百年単位の揺り戻しの中で、再び「仮面を外した真実」を求め始めているのかもしれない。
宣伝や権威の仮面が剥がれても残るもの——それが商品やサービスの純粋な力である。マーケティングもまた、虚飾ではなく本質で勝負する局面に入っている。これからは「本当にいいもの」が、自然と支持され、売れていく時代に移行しつつあるのだ。