1918年11月11日
第一次世界大戦の終結
1918年11月11日、第一次世界大戦は連合国とドイツとの休戦によって幕を閉じた。
日本は戦勝国の一つとして名を連ね、その国際的地位はこれまでにないほど高まった。
パリ講和会議では五大国の一角として扱われ、国際連盟では常任理事国の席を得る。
帝国日本は、この瞬間、自らを大国と信じ、自信に満ちた“新しい未来”を夢見ていた。
だが、その未来は、輝かしい栄光ではなく、破局へ向かう長い下り坂の入り口だった。
生活が苦しくなる勝者
戦争が終われば、戦時特需も終わる。
日本の好景気は大戦によって“外部から与えられた一時的な刺激”であり、終戦と同時に急速に失われていった。
輸出は激減し、物価は乱高下し、企業は次々と倒産する。市井の生活は苦しくなり、人々は「大国になったはずの日本」がなぜこうも不安定なのか理解できず、社会には不満と不信が渦巻き始めた。
この時期、政党政治はようやく形を整えつつあったが、その内実は決して成熟してはいなかった。
派閥と利権争いばかりで、国民の生活に目を向ける余裕はなく、政治への失望は深まる一方だった。
関東大震災が精神を折った
1923年9月1日、関東大震災が首都圏を襲った。東京と横浜の多くは瓦礫となり、200万人以上が被災する。
大戦後の不景気のただ中に巨大な災害が重なり、社会はさらに不安と怒りに満ちていった。
政治は復興資金をめぐって争い、官僚は現実を前に身動きが取れず、人々は政府への信頼を急速に失っていく。
そうした混乱の中で、奇妙な空気が静かに社会の底から立ち上がり始めた。
政党政治ではこの国を救えないのではないかという疑念。そして、その対比として浮かび上がったのが“軍”である。
第一次世界大戦で日本が国際的地位を高め、五大国として扱われたという記憶は、この頃まだ鮮やかに残っていた。
多くの国民は、あの戦勝国としての日本の姿を軍の力と重ね合わせ、軍こそが国家の秩序の象徴であり、安定をもたらす唯一の柱であるという幻想を抱き始める。
国家的な災害や不況は、弱った社会ほど「強い権力」への期待を抱かせる。
第一次世界大戦で名誉を得た“軍”のイメージが、美しく、頼もしいものとして膨らんでいく。
日本もまた、その甘い幻想の罠に、確実に足を踏み入れていた。
世界恐慌が、軍部を“救世主”に
1929年、ニューヨーク市場の暴落をきっかけに世界恐慌が始まる。
輸出が生命線だった日本経済は直撃を受け、農村は疲弊し、都市部では失業者があふれた。
日々の暮らしが崩れていく中、政党は権力争いを続け、政治は無力をさらけ出した。
またしても、軍部は強烈な対比として浮かび上がった。
「政治家は無能だが、軍人は規律と覚悟を持っている」と多くの国民が信じるようになり、期待と依存がますます膨らんでいく。
軍は「国民を救うためには強い国家が必要だ」「外交ではなく行動こそが国益を守る」と主張し、
疲弊しきった日本社会は、その強い言葉にすがりつき始めた。
満州事変──歯車が狂い始めた瞬、
1931年、関東軍が独断で満州事変を起こす。政府は事前に何も知らず、戦争が始まった後に報告を受けるという屈辱的な状況だった。
本来なら軍の暴走に厳しい処罰を下すべきだったが、国民の多くは「軍が日本の将来を切り開く」と喝采を送り、新聞も軍を称賛した。
政治は軍を罰するどころか、むしろ軍の行動を追認してしまう。
この瞬間、日本は“軍が勝手に戦争を始めても止められない国家”へと変質した。
満州は経済の希望とされ、疲れた国民は軍部を英雄視した。軍部は支持を得てますます政治への介入を強めていく。
そして、軍の暴走を制度的に許す仕組みが復活する。
軍部大臣現役武官制という、民主主義を破壊した制度
軍部大臣現役武官制の復活は、日本の政治構造を決定的にゆがめた。
この制度は、もともと明治期に軍が政治への影響力を確保するためにつくられたもので、陸軍大臣・海軍大臣の就任資格を“現役の将官”に限定するという内容である。
退役軍人や文官が大臣になることができない仕組みは、形式上は軍の専門性を重視すると説明されたが、実際には軍が政権に対する拒否権を握るための制度だった。
この制度は1900年、山縣有朋の政治的思惑によって導入されたが、軍の政治介入が行き過ぎるという批判を受け、1913年に「現役」に限る要件が緩和され、事実上は停止された。
しかし、満州事変以降、軍部の発言力が急激に増していく中で、陸軍は政権に対する圧力を取り戻すため、1936年にこの制度の“復活”を強く求めた。
こうして1936年、軍部大臣現役武官制は再び法律として息を吹き返し、軍は陸海軍大臣を派遣しなければ内閣が成立しないという、異常な権力を手にした。
軍が「大臣を出さない」と言えば、どれほど優秀な首相候補がいても、議会がどれほど支持しても、内閣を組閣することができない。
軍の意向に沿わない政権は成立できず、軍が望む政策だけが実行されていくという、極めて危険な構造である。
政党政治は名ばかりの存在となり、内閣は軍の機嫌を損ねないよう怯えながら政策を決め、官僚は生き残るために軍へ同調せざるを得なくなった。
国民の側も、第一次世界大戦の記憶から「軍こそが国を守る」と信じ込んでいたため、軍部の権力集中をむしろ歓迎する空気が生まれた。
民主主義は音を立てて崩れ、日本は軍部が思うままに進める一方的な道を転がり落ちていった。
それは“誰も止められない政治”が作り出した破局の始まりだった。
日中戦争から対米対立へ
1937年、盧溝橋事件を機に日中戦争が全面化した。
短期決戦と信じられていた戦いは、予想に反して泥沼へと沈みこみ、日本は戦線拡大のたびに国力を削られていった。
占領地が増えるほど守る範囲も広がり、兵力も資金も尽きていく。戦争を続けることそのものが、国家の体力を奪う構造になっていた。
同じ頃、欧州では第二次世界大戦が始まり、世界の緊張は高まっていた。
日本はドイツ・イタリアとの接近を強めたが、この選択が英米との関係を急速に悪化させる。
アメリカは日本の膨張を「国際秩序への脅威」と捉え、日本を強く警戒するようになる。
追い詰められた日本が選んだのが、南方への進出だった。資源、特に石油の確保を目的に、1940年に北部仏印へ、そして1941年には南部仏印へと軍を進める。
しかし、これはアメリカに“東南アジア支配を狙う軍事行動”と映り、対日政策は一気に強硬化する。
ついにアメリカは日本への石油輸出を全面停止した。
当時の日本は、軍事も産業も石油なしでは動かず、禁輸が続けば海軍は半年で作戦不能、国家の存立そのものが危うくなると言われた。
外交交渉の余地はわずかに残っていたものの、長年拡大を続けた軍部の影響力と、それを抑えきれない政治の弱さは、冷静な判断を不可能にしていた。
軍は「石油が尽きれば戦わずして滅ぶ。今戦うしかない」と主張し、社会全体がその論理に押し流されていく。
こうして日本は、逃げ場のない状況のなかで、1941年12月、ついにアメリカとの全面戦争に踏み込んだ。
その結末は、今日の私たちが知る通りである。1945年、日本は焦土と化し、国土も国民生活も破壊し尽くされ、国家は敗北のなかで崩れ落ちた。
第一次世界大戦で得た栄光から、わずか二十数年。
日本は自ら選んだ道と、止められなかった暴走の果てに、破局へと追い込まれていった。
私たちに突きつける「警告」
第一次世界大戦の勝者として立った日本は、なぜわずか二十数年で敗戦国へ転落したのか。
その理由は、軍事力でも外交でもない。
政治が弱まり、社会が希望を失い、国民が“強いもの”に依存していくなかで、国家の仕組みそのものが軍部に乗っ取られ、権力が一点に集中してしまったからだ。
集中した権力は、必ず暴走する。
それを止める監視装置が、日本にはなかった。
AIの時代に求められる“権力の分散”という知恵
私たちが今日直面している危機は、形こそ違えど、本質はあの時代と同じ構造を抱えている。
社会のあらゆる領域でAIが意思決定に関わり始め、行政、司法、軍事、経済といった複雑な判断が、徐々にアルゴリズムへと委ねられつつある。
AIは人間と異なり、感情にも利害にも左右されず、膨大なデータから合理的な結論を導き出すことができる──そう信じられている。
しかし、そのAIを設計し、運用し、監督する人間の価値観や利害が偏れば、かつて軍部が国家を支配した時代とまったく同じ構造が、再び姿を変えて現れることになる。
ただし今度は、当時のように制服も銃剣も伴わない。大声で命令することもなければ、強制力を誇示することもない。
それはもっと静かで、もっと見えにくく、もっとやっかいだ。
ゆがんだアルゴリズムの判断は、私たちの意識の外側で、気づかれぬまま社会の基盤へと浸透していく。
今日ひとつの決断が歪められ、明日またひとつ、そして一年後には百の決断が積み重なり、いつの間にか社会全体が“どこかおかしい方向”へ導かれている──そんな未来が現実になり得る。
それはあたかも、遅効性の毒が血流に紛れ込み、身体を蝕んでいくのに気づかないようなものだ。
気がついたときには、すでに取り返しのつかないところまで進んでいる。
だからこそ必要なのは、AIが政府を監視し、政府がAIを監視し、そして市民がその両者を監視するという、透明で三重のチェック体制だ。
AIや権力を“信用するかしないか”ではなく、構造として“集中させない知恵”こそが重要になる。
権力の在り処を分散させることでしか、ゆっくりと社会に溶け込むその遅効性の毒に対抗する術はない。
見える暴走よりも、見えないゆがみの方が恐ろしい。
だからこそ、監視する仕組みと疑う感性を手放してはならないのである。
歴史は“過去の記録”ではない
日本が辿った1918〜1945年の道は、過信、権力集中、監視不在という三つの要素が重なれば、国家はいかに短期間で破局へ向かうかを教えている。
歴史を忘れた社会は何度でも同じ過ちを繰り返す。
私たちは、強い道具――AIという新たな判断機構――を手にした。
だが、その使い方を誤れば、より大きな破局を招く。
未来を守るためには、歴史を正しく理解し、権力を分散し、互いに監視し合い、成熟した市民社会を築くこと以外に道はない。
歴史は終わった物語ではなく、私たちへ向けられた警告なのだ。