2月11日。街には日の丸が掲げられ、カレンダーには「建国記念の日」と記される。1873年(明治6年)に定められた「紀元節」を起源とするこの祝日は、『日本書紀』において初代・神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)をグレゴリオ暦に換算したものだ。

しかし、現代の歴史学・考古学の徒に問えば、返ってくる答えは一様に冷ややかである。「神武天皇の実在を証明する客観的なエビデンスは存在しない」と。紀元前660年という年代設定からして、縄文時代末期から弥生時代へと移行する過渡期であり、組織化された「国家」や「天皇」という概念が成立していたとは考えにくい。

我々は、科学と合理性が支配する21世紀の空気を吸いながら、その実、1300年前に編纂された「壮大な物語」の上に国家のアイデンティティを乗せている。

「エビデンス」という病

現代社会はエビデンスの奴隷である。政策決定から健康食品の選択に至るまで、数値化されたデータと客観的な裏付けが求められる。その論理で行けば、『日本書紀』は「偽書」あるいは「ファンタジー」の類として切り捨てられるべき存在だ。

しかし、歴史とは「実際に起きたこと」の集積であると同時に、「人々がどのように記憶したいか」の編集物でもある。8世紀、天武・持統天皇の時代に『日本書紀』が編纂された動機は極めて政治的、かつ国際的なものだった。

当時、大陸では唐という巨大帝国が版図を広げ、朝鮮半島では新羅が勢力を増していた。新興国家であった「日本(倭国)」が、これら諸外国と対等に渡り合い、独立を保つためには、文明国としての「格式」が必要だった。つまり、「我々には数千年にわたる独自の歴史があり、神の血を引く正当な統治者がいる」というデモンストレーションである。

八百万の神々を整理し、系譜を整え、アマテラスを頂点とする神話体系を構築したのは、いわば国家存立のための「ブランディング」だった。そこには、現代の科学者が求めるような「客観的事実」など最初から必要なかったのだ。必要なのは、外部(諸外国)を納得させ、内部(民衆)を統合するための、隙のない「物語」だったのである。

神々のパーソナリティ

面白いのは、これほどまでに作為的に整備された神話が、1300年経った今もなお、日本人の精神構造に深く根を張っている点だ。

我々は、最先端のiPhoneをポケットに入れながら、正月の三が日には神社へ列をなし、科学的には何の説明もつかない「お守り」を有難がって買い求める。地鎮祭ではスーツを着た建設会社の重役が、神主に頭を下げる。これらは単なる「古い習慣」の惰性ではない。

人々は神話の中に、エビデンスを超えた「パーソナリティ(人格性)」を見出している。アマテラスの岩戸隠れに見る「引きこもり」の人間臭さ、スサノオの暴力性と英雄性の同居。これらの物語は、理屈ではなく情緒として日本人の倫理観や死生観を形作ってきた。

エビデンスが必要であるという主張そのものに、実はエビデンスなどない。人間という生物は、論理だけで動くほど合理的にはできていないからだ。むしろ、人生の決定的な局面において人を動かすのは、統計データではなく「自分は何者であり、どのような物語の中に生きているのか」という主観的な物語の強度である。

「信じられていること」が作る物理的現実

「神武天皇は実在しなかった」という言説は、歴史学的には正解かもしれないが、社会学的には無力である。なぜなら、彼が即位したとされる2月11日に、現実に銀行は閉まり、会社は休みになり、人々は祝日として行動を規定されているからだ。

「嘘」であっても、社会全体がそれを「事実」として扱うことで、それは物理的な現実(フィジカル・リアリティ)へと昇華される。これをユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で「虚構」を信じる力と呼んだ。貨幣、法律、国家、そして神話。これら全ては目に見えない虚構だが、それを共有することで、人類は数万人規模の協力を可能にしてきた。

日本の建国神話も同様だ。それがどれほど史実から遠かろうと、人々がその物語に自分の出自を重ね、八百万の神々の気配を四季の中に感じ取っている限り、それは「真実」として機能し続ける。実生活に影響を与えているのは炭素14年代測定法の結果ではなく、初詣の冷たい空気の中で感じる「何か」の方なのだ。

我々の傲慢

我々は、科学が進歩したおかげで「迷信」から脱却したと自惚れている。しかし、実際には新しい物語(例えば、経済成長という神話や、テクノロジー万能という信仰)に乗り換えただけに過ぎない。

2月11日という日は、我々にその傲慢さを再考させる。1300年前の権力者が捏造したかもしれない物語が、今なお我々の休日を支配しているという事実は、滑稽であると同時に、人間という存在の愛おしさを象徴している。

我々は結局、エビデンスだけでは生きていけない。目に見えない神々の視線を意識し、実在したか定かではない英雄の影を追いながら、日々の生活に彩りと意味を与えている。

建国記念の日に我々が祝うべきは、神武天皇という個人の功績ではない。むしろ、これほどまでに非科学的で、それでいて強靭な「物語」を共有し、維持し続けている我々自身の、業の深い想像力に対してである。