「国が何をしてくれるか」ではなく

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは大統領就任演説でこう語った。
「Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country.」
「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問いかけなさい」

この言葉は、国家と個人の関係がまだ“理想”として成立していた時代の空気をまとっている。国は成長し、未来は拡張し、努力は報われるという前提があった。だからこそ「国のために何ができるか」という問いは、崇高で、現実味のある呼びかけとして機能した。

では、今の日本で同じ言葉を口にしたらどうだろうか。
おそらく多くの人は、崇高さよりも違和感を覚える。

年金という「約束」が壊れかけている

日本の年金制度は、もともと「世代間扶養」という暗黙の合意の上に成り立ってきた。現役世代が支え、将来は自分も支えられる。だが少子高齢化が進み、この前提はすでに崩れている。

制度が「すぐに破綻する」と断言するのは正確ではない。だが、「期待通りに機能しない」という感覚は、ほぼ共有されつつある。将来いくらもらえるのか分からない。そもそももらえるのかも怪しい。そうした不確実性が、静かに信頼を削っている。

過去最高税収でも、生活は楽にならない

国の税収は過去最高を更新している。数字だけを見れば、国家は潤っているように見える。だが、多くの個人の実感は真逆だ。

社会保険料は重く、物価は上がり、賃金の伸びは追いつかない。福祉や子育て支援、医療や介護が劇的に改善したという実感も乏しい。数字上の成功と、生活の実感が完全に乖離している。

このズレが続くと、人は国家を「頼れる存在」ではなく、「よく分からないが負担を求めてくる存在」として認識し始める。

国家への期待が、静かに下がっている

かつては「国が何とかしてくれる」という期待があった。だが今、その期待は声高に否定されるのではなく、静かに引き下げられている

怒りや抗議ではない。諦めに近い温度で、「あてにしない」という選択が広がっている。これは政治不信というより、合理的な適応だ。

NISAが象徴する「自己防衛」

NISAの拡充は、その象徴だ。
老後は年金だけでは不安だから、自分で資産をつくる。国のセーフティネットに全面的に頼るのではなく、部分的に距離を取る。

これは国家への反逆ではない。
「そういう設計になっているのだから、そう動くしかない」という冷静な判断だ。

国家もまた、暗にこう言っているように見える。
「すべては守れない。できる人は、自分で備えてほしい。」

「国のために」という言葉が遠くなった理由

現代の日本で、「国のために何ができるか」と真剣に考える人は少数派だ。
それは利己的だからではない。

ほとんどの人が、明日の生活のために必死だからだ。
家賃、教育費、医療費、老後不安。目の前の課題があまりに具体的で、「国」という抽象概念に思考を割く余裕がない。

理想は、余裕のある社会でこそ語られる。

知識格差と資産格差が、可視化され始めている

ここ数年で顕著になったのは、知識の差と資産の差が連動し始めていることだ。
制度を理解し、情報にアクセスでき、行動できる人は資産を増やす。一方で、そうでない人は不安を抱えたまま立ち止まる。

かつては「同じ国民」として均されていた差が、今ははっきり見える。しかもそれは、努力だけで簡単に埋まるものではない。

私たちは、何ができるのか

ケネディの言葉を、今の日本にそのまま当てはめることはできない。
だが完全に無意味でもない。

「国のために何ができるか」を考える前に、
「国家に依存しすぎない個人でいる」こと。
それが、今の時代における一つの現実的な答えなのかもしれない。

理想を語るには、まず生き延びること。
この順番が逆転してしまった社会で、人々は静かに、自分なりの答えを選び始めている。

それは愛国心の衰退ではない。
信頼と現実のズレに対する、極めて現実的な反応なのだ。