1792年12月11日、フランス国民公会で一つの裁判が始まった。
被告はルイ16世。かつて「神に選ばれし王」と呼ばれた人物である。

この出来事が象徴していたのは、単なる王の失脚ではない。
王権神授説、すなわち「生まれによって支配する正当性」が、民衆の手によって完全に否定された瞬間だった。

革命政府は、王を「国家への反逆者」として裁いた。
世界史を見渡しても、これほど急激かつ徹底的に社会構造を転覆させた事例は稀である。
最も身分の低かった者たちが、王と貴族を法廷に引きずり出し、裁いた。
これは政変ではなく、社会的な天変地異だった。

なぜフランス革命は起こったのか

革命の原因は多層的だが、核となるのは明確だ。
権力と富の極端な集中である。

旧体制下のフランスでは、第三身分が税と労働と犠牲を引き受ける一方で、貴族と聖職者は特権を独占していた。
重要なのは、人々が貧しかったことではない。
不公平が、正当な秩序として語られていたことだ。

「神が王を選び、王が秩序を守る」
この物語が信じられている限り、格差は耐えられた。

だが啓蒙思想の広がりによって、この物語は崩れた。
特権は神聖なものではなく、単なる不正として可視化された。
その瞬間、社会は臨界点に達した。

権力と富の集中

権力や富が一部に集中すると、必ず二つの現象が起こる。
支配する側は現実から乖離し、
支配される側は「自分たちは搾取されている」と感じ始める。

この二つが同時に進行したとき、社会は爆発する。
その引き金になるのは、理論ではない。
象徴的な出来事だ。

フランス革命において、それが王の裁判だった。
「王も裁かれる存在だ」という事実は、人々の意識を一瞬で反転させた。

人々の意思は、ゆっくり変わるのではない。
ドラマティックな出来事一つで、根底から覆る。

革命の理想と、衆愚政治への転落

革命のスローガンは「自由・平等・友愛」だった。
だが現実には、そこに必ずこう付け加えられた。

「さもなくば死」。

理想は暴力と切り離せなかった。
やがて革命派は互いを裁き、恐怖政治が始まる。
ここで起きたのが、衆愚政治への転落である。

正義は単純化され、
敵か味方か、革命的か反革命的か、
複雑な思考は裏切りとみなされた。

民衆の意思は、いつの間にか少数の声高な人間に代表されるようになる。

革命は終わっていない

フランス革命は、遠い過去の出来事ではない。
たった250年前の人類の選択である。

権力や富の集中、政治への不信、分断された社会。
これらは現代にも確実に存在する。

そして今、18世紀の「富と権力の集中」に匹敵する現象が起きている。
データの集中である。

現代のインターネット社会では、GAFAと呼ばれる巨大テック企業に、世界中の個人情報が集約されている。
住所、年齢、性別といった基本情報だけでなく、嗜好、行動履歴、購買傾向、さらには思考のパターンまでもが、一部の企業に蓄積されている。

18世紀には、貴族と聖職者が特権を独占していた。
21世紀には、プラットフォーマーが最も資産価値の高いデータを独占している。
構造は驚くほど似ている。

集中がもたらす歪み

データが一部に集中すると、かつての王権と同じ現象が起こる。
支配する側は現実から乖離し、
支配される側は「自分たちは管理され、利用されている」と感じ始める。

アメリカ大統領ですら、プラットフォーム企業の判断一つでSNSアカウントを凍結される時代である。
一般市民の表現の自由が、少数の企業の意思に左右される構造は、すでに完成している。

これは、革命前夜の
「神が王を選び、王が秩序を守る」
という物語と、本質的に同じだ。

GAFAの物語が信じられている限り、集中は耐えられる。
だが、その物語が崩れたとき、歴史は必ず動く。

革命は予告なしに始まる

群衆は表向きには変化を恐れ、安定を求める。
だがその内側では、秩序を壊す「何か」が起こるのを、無意識のうちに待ち続けている。

1792年12月11日。
最も身分の低かった者たちが、王を裁いた日。

自由、平等、友愛。
その言葉が掲げられたとき、長く虐げられてきた多くの人々が望んだのは、
自分たちの生活が段階的に良くなる未来ではなかった。
上に立つ者たちが引きずり下ろされる、その瞬間の光景だった。

王が裁かれ、貴族が没落し、
「自分たちより上にいる存在が消える」ことそのものが、
正義として、救済として受け取られた。

聖女ギヨティーヌと呼ばれた断頭台の下で、
権力者の首が刎ねられるたび、群衆は狂喜乱舞した。
血に濡れた広場でカルマニョールを踊り狂い、
笑い、叫び、歌いながら、
積み重なってきた過去の恨みをその場で清算しようとした。

それは未来を築くための祝祭ではない。
過去を終わらせるための陶酔だった。

革命とは、理想の社会を築く行為ではない。
不公平に耐え続けるよりも、
すべてを壊し、“上位者を消す”ことを選んでしまう衝動である。

それは恐ろしくも、文明の皮膜を剥がしたときに露わになる人間の本質なのかもしれない。