国際移民デー

12月18日は国際移民デーである。
国連が移民の権利と尊厳を守るために定めた日だが、この記念日はどこか落ち着かない響きを持つ。
移民という存在が、現代社会において最も深く価値観の衝突を引き起こすからだ。

移民は単なる人口移動ではない。
それは文化が移動し、言語が交差し、生活習慣や価値観が混ざり合う現象である。
そして同時に、「私たちは誰なのか」「どこまでを同じ社会と呼ぶのか」という問いを、社会全体に突きつける存在でもある。

島国・日本も例外ではなくなった

かつて日本は、地理的にも歴史的にも「移民問題から距離のある国」だと考えられてきた。
島国であり、単一言語・単一文化のイメージが強く、移民は限定的な存在と見なされてきた。

しかし昨今、その前提は急速に崩れつつある。
労働現場、教育現場、地域社会、医療や介護の現場。
外国にルーツを持つ人々と日常的に接する機会は確実に増えている。

制度としての「受け入れ」をどう設計するかだけでなく、
文化として「共に生きるとはどういうことか」を考えざるを得ない局面に、日本も入っている。

ナショナリズムとグローバリズムの振り子

20世紀後半以降、世界はグローバリズムを推し進めてきた。
国境を越える移動は当たり前になり、多様性は理想として語られた。

しかしその一方で、人々は足元の安定を失った。
雇用、文化、共同体、アイデンティティ。
見えない形で不安が蓄積し、その反動としてナショナリズムが力を持ち始めた。

この二つは対立しているようで、実は同じ不安から生まれている。
「自分はどこに属しているのか分からない」という感覚だ。
移民問題は、この振り子の最も分かりやすい位置に置かれている。

右翼と左翼が機能しなくなった世界

かつては、移民問題は思想で整理できた。
左翼は国際連帯や人道を掲げ、右翼は排他性や秩序を重視した。

だが今、その構図は成り立たない。
福祉や労働を守るために移民に慎重な左派もいれば、経済合理性のために移民を推進する右派もいる。

思想はねじれ、立場は溶け合った。
移民問題はもはやイデオロギーではなく、文化的な不安と生活実感の問題へと姿を変えている。

混ぜるな危険?

移民によって起こる変化は、経済以上に文化の領域で可視化される。
食事の匂い、街の音、言語のリズム、祝祭の意味。
日常の細部が変わることで、人々は「自分たちの文化が失われるのではないか」と感じる。

だが文化は本来、固定されたものではない。
歴史を振り返れば、あらゆる文化は混ざり、変形し、更新されてきた。

問題は変化そのものではない。
変化をどう理解し、どう受け止めるかである。

人工知能の介入

この複雑な文化的緊張に、AIが関与し始めている。

AIはすでに、移民を含む人間を「管理」する存在になりつつある。
ビザ審査、在留資格、制度利用、居住履歴、言語能力。
これらは効率化の名のもとにデータ化され、判断は徐々にアルゴリズムへ委ねられていく。

だが問題は管理そのものではない。
AIは今、人間を評価し始めている。

評価される人間

どこに住み、どんな行動を取り、どの制度を利用し、どんな履歴を持つか。
それらは点として集められ、線として結ばれ、数値へと変換される。

誰が「適応している人間」なのか。
誰が「問題を起こさない存在」なのか。
誰が「社会にとって安全で、扱いやすい個人」なのか。

これはSFではない。
すでに現実の一部で、人間はスコアとして扱われ始めている。

価値観が内面から行動履歴へ移るとき

ここで起きているのは、価値観の転換だ。

かつて人間は、
誠実さや努力、善意といった「内面」によって評価される存在だった。

しかし機械的な採点がスタンダートになると、
評価の基準は行動履歴、適合度、逸脱の少なさへと移行する。

文化的背景や個人の物語は削ぎ落とされ、
残るのは「測定可能で予測可能な人間」だけになる。

アポカリプス

もし私たちが、移民という問題を人間の想像力と対話によって扱えなくなったとき、
その代替として現れるのは、機械的に点数化された“善良な人間”で満たされた社会かもしれない。

ルールを守り、摩擦を起こさず、常に平均的で、予測可能な人間。
そこから少しでも外れた存在は、静かに排除されていく。

それは秩序だった社会だろう。
しかし同時に、文化が痩せ、異物が消え、物語のない社会でもある。

ナラティブを続ける

国際移民デーが示しているのは、移民が「他人事」ではないという事実だ。
人の移動は文化を揺らし、価値観を変え、社会の前提を書き換える。

日本も、すでにその渦中にある。
そしてAIは、その変化を冷静に、正確に、しかし感情を持たずに評価し始めている。

ナショナリズムとグローバリズムの振り子は、これからも揺れ続けるだろう。
その中で問われるのは、「誰を排除するか」ではない。

人間を、点数ではなく物語として扱い続けられるのか。
国際移民デーは、その問いを私たちに突きつけている。