時間は“リセットされる”ものだという思い込み

一日は24時間で終わり、翌朝0時にリセットされる。ひと月は月末で区切られ、また1日から始まる。年も同じように12月31日で閉じられ、翌日には新しい1月1日が訪れる。
時間とは、めぐり、戻り、再び始まるもの──私たちは幼い頃からそう教えられ、それを疑うことなく受け入れてきた。

ところが、決してリセットされない時間がある。
それが西暦だ。
2024年の次は2025年、そこから2026年、2027年……。太陽の運行とも、月の満ち欠けとも、季節の循環とも無関係に、ただ数字だけが前へ前へと増えていく。
この一本の“直線”は、自然のサイクルからはみ出した、人類固有の時間である。

循環しない西暦

人間が「時間は繰り返す」と考えるのは、自然の観測がその前提にあったからだ。
太陽は昇って沈み、月はおよそ30日で満ち欠けし、地球は一年かけて太陽の周りを回り季節を巡らせる。
この規則性が、人類に「時間は円環である」と教えた。

だが西暦だけは例外だった。
この暦は自然現象を基準にしていない。イエス・キリストの誕生という、特定の“歴史的事件”を基点に据えたため、自然のような反復構造を持たない。
一度起きた出来事は二度と同じ形では戻らず、歴史は積み重なっていく。こうして西暦は、「リセットされる時間」とは別の性質を持つ“直線の時間”になった。

ただ、「歴史は繰り返さない」という感覚もまた、人間特有の思い込みかもしれない。
文明は興り、栄え、衰えてはまた別の形で興る。
そのサイクルを数千年繰り返しながら、私たちはそれでも「今回は違う」「私たちは進歩している」と考えたがる。
直線的な時間認識は、人類が未来に希望を託すための“物語”なのかもしれない。

宗教から生まれ、宗教を超えてしまった

こうした“歴史=直線”という考え方を背負った西暦は、キリスト教圏から世界に広がった。
しかし現在の西暦は、もはや宗教とは無関係の存在になっている。
日本も中国もインドもイスラム圏も、日常生活では西暦を使う。
貿易、科学の実験データ、銀行システム、法律文書、コンピュータの内部時計──すべてが西暦を前提に動いている。

つまり西暦は、合理性ではなく文明の力学によって世界標準となった。
社会の基盤となった以上、もはや誰も変えることはできない。

暦を設計する

では、もし人類より高度な知性が「時間」を設計し直すとしたらどうだろうか。
おそらく西暦のような体系は採用されない。
高度な知性にとって大切なのは、計算しやすさ、誤差の少なさ、構造の単純性であり、人間の暦はそのどれにも適していない。

一年の長さは時に366日になり、月によって日数はまちまち、曜日は毎年ずれていき、暦の起点は特定宗教の歴史的事件
──合理性という観点から見れば、人類の暦体系は驚くほど複雑で、感情的で、統一性を欠いている。

実際に“単純で無感情な時間”はすでに存在している。
UNIX時間は1970年1月1日からの秒数を直線的に刻み、GPS時間は閏秒を排除して走り続ける。
どちらも循環せず、リセットされず、誤差が少なく、計算機が扱うには理想的だ。
合理性だけで考えるなら、西暦は決して優れた設計とは言えない。
むしろ、人間の歴史的事情や感情の痕跡が色濃く残った“不均質な遺物”に近い。

宇宙から見れば、人類の暦など取るに足らない

太陽の運行も、地球の自転も、宇宙の膨張も、人類の都合とは無関係に進み続ける。
人類がどの暦を使っているか、文明がどれほど発展しているか──そんなことに“時間そのもの”が関心を示す理由はない。

そう考えると、西暦とは、人類が自分たちだけの小さな世界の中でつくりあげたローカル・ルールにすぎないという感覚が湧いてくる。
非効率で、恣意的で、それでも自らを正しいと信じ込んできた。
謙虚さを失い、自分たちの尺度を宇宙全体に当てはめようとした結果が、この“戻らない時間”なのかもしれない。

人類は「無知の知」を掲げながら、その無知を忘れる。
時間という巨大な概念を、まるで掌で扱えるような気になってしまう。
西暦に宿る奇妙さは、人類の傲慢であり、同時に愛すべき弱さの影でもある。

「当たり前」を疑うと見えるもの

暦のように当たり前すぎるものを問い直すことには、いかにも意味がなさそうに見える。
だが、当たり前を疑う行為の中にこそ、新しい発見が潜んでいる。

スマホの画面に表示される残り少なくなった「2025年」という数字。
それは数千年の人類史が折り重なってできた結晶であると同時に、人類という一つの種が、必ずしも合理的とは言えない判断の連続で作り上げた怠惰な指標でもある。
私たちは今日も、その途方もなく長く、そしてどこか歪な線の上を歩き続けている。