期待値を知りながら、なぜ人は夢を買うのか

昔からギャンブルの世界には、こんな言葉がある。
「ギャンブルは、絶対使っちゃいけない金に手に付けてからが本当の勝負だ!」
(小説家・劇作家・ジャーナリスト 菊池寛 1888-1948)

もちろん、宝くじを買う人の多くはそんな危険な領域に踏み込んではいない。
ただ、この言葉にはひとつの真実が含まれている。
ギャンブルとは、確率や合理性の問題ではなく、“心が未来に希望を託そうとする”行為そのものだということだ。

だからこそ、年末になると宝くじ売り場には長い行列ができる。
期待値が低いと知りながら、当たらないと誰もが理解していながら、
それでも「一枚だけ」と財布を開く。

合理的に考えれば、これは“ありえない”行動だ。
だが、人は数字では語れないものに動かされる。

年末ジャンボは、その典型である。

人は損得だけで動いていない

宝くじの期待値はおよそ45%と言われている。
1000円買えば、計算上は550円ほど“損をする”仕組みだ。
これは曖昧な推測ではなく、宝くじが地方自治体の公共事業として運営されているため、配分比率が公開されていることに基づいた数字である。
売上のおよそ半分は自治体の収入や公共事業に使われ、残りの一部が賞金として還元される。
だから期待値は45%前後に収まる。

仕組みは極めてシンプルだし、公表されている。
そして多くの人は、この“数学的な損”を知っている。
誰しもがこのからくりを理解したうえで購入しているということだ。

それでもなお、売り場の前には行列ができる。
期待値が低いからといって、人々の手が止まるわけではない。
合理的な判断なら足が遠のくはずの場所に、年末になると人が集まってくる。

「夢を見る力」は合理性では測れない

損をするのに人が宝くじを買う理由は何か。
それは、宝くじが 幸福ではなく、幸福の“想像”を売る商品だからだ。

当たる確率はほぼゼロに近い。
しかし、当たったときの風景は限りなく鮮やかだ。

大きな家、家族旅行、仕事からの解放──。
実現しないと知りつつ、ほんの数分だけ味わうことが許される。

この“小さな幸福の先取り”には、数字を超えた価値がある。
だから人は、期待値の計算よりも、自分の心の反応を優先する。
これが、合理的経済人ではなく“感情を持った人間”としての在り方だ。

経済学が描けない世界はすぐ目の前にある

伝統的な経済学では、人は
「利益を最大化し、損失を避ける」
というモデルで説明される。

だが、宝くじ売り場の行列を見れば、その前提は一瞬で崩れる。
身近な行動を観察するだけで、人は合理性から大きく外れていることがわかる。

人は“確率”ではなく、“物語”によって動く。
数字ではなく、“心の重さ”で決める。
損得ではなく、“その瞬間の意味”に反応する。

だから経済学は、未来を完全に見通すことができない。
市場の動きが読みづらい理由は、世界が複雑だからではない。
“人間が理屈だけで動く存在ではない”という、根本的な事実に由来している。

経済の不確実性とは、結局のところ、
人の心がつくる揺らぎなのだ。

宝くじは「非合理の象徴」ではなく「人間らしさの象徴」

合理性は人生を整えるが、非合理は人生を彩る。
その両方を併せ持っているところに、人間という存在の複雑さと魅力がある。

年末の売り場に立つ人々は、それを言葉にしないだけで、どこかで理解している。
期待値では測れない“何か”を買っていることを。
数字より、感情のわずかな揺らぎを信じていることを。

そして私たちはまた今年も、小さな紙片に未来を預ける。
損をする確率が高いとわかっていても、それでも買う。
それは合理的とは言えないかもしれない。
しかし、人間としては、ごく自然な行為だ。

むしろ、この「非合理さ」こそ、人間固有の力なのだと思う。
効率や最適化を追求するAIには、この感情の揺らぎも、希望の手触りも、夢に触れたときの高揚も、本質的には理解できない。
数字で説明できない“余白”こそが、人間が人間である証であり、AIには模倣しきれない領域だ。

数字では測れず、効率では割り切れず、それでも惹きつけられるものを生み出す力──
AIから仕事を奪われないための防衛術は、人間の非合理性を肯定することかもしれない。